うちの夫は人類最弱

まんぼうレベルの生存能力の夫をもつ人類最強妻のブログ

ヌーサ波情報&サーフィンログ

2019年8月1日12:00

ナショナルパーク

サイズ ヒザ~モモ

人数 5人

強いオフショア

テイクオフから早いセクションをノーズで抜けてカットバック。

ロングライドは難しい。

ショートボーダーはテイクオフからアップスして終わり。

ティーツリーはセットで腹くらい割れていたよう。

今日は修理明けのハイパフォーマンスボードで。波が小さいのでシングルフィンのノーズライダーの方が楽しめたような気がするが。

始めはリトルコーブでヒザ波でテイクオフして4歩でノーズ。

もしくは波のパワーが無かったので前のほうにテイクオフしてそのまま2歩でノーズに。また今日もたくさんのインコンプリートのノーズをしてしまった。

ノーズに行くのが楽しくて、ついついそのままノーズにい続けてしまい、張ったセクションを過ぎノーズダイブしてライディングを終了させてしまう癖がある。

ステップバックが当面の大きな課題である。「ノーズにタッチしてすぐ戻る」くらいの心積もりでステップした方がよいのだろうか。

また、「テイクオフから浅いボトムターンからストールしてノーズ」という一連の流れが染み付いていて、遅い波のときはしばしばクリティカルポジションから離れてしまう。また、波のボトムが使えておらず、サーフィン自体が小さくまとまってしまっている気がする。大きなカットバックや大きなボトムターンがあってこそ、ノーズの美しさが際立つのではないか。直線的なライディングから立体的なライディングができるようになることを目標に、8月の目標をボトムターンに設定しようと思う。どこまで深くスピードがついたボトムターンができるようになるか乞うご期待。

ちなみに今日1本「次の波はウォーキングを封印してマニューバー系のライディングをする!」と決意したにも関わらず、やはりその波でもウォーキングしてしまった。

マニューバー系の板に乗ること事態に疑問を感じてきているものの、マニューバーとノーズライドどちらもできるオールラウンダー系サーファーになりたい私にとっては避けて通れない道なのである。

 

サーフィンって、本当に難しく奥深く、楽しいものですね。

 

以上KT@noosaよりオーストラリアヌーサの波情報とサーフィンログでした。

 

 

~今日の最弱伝説~

夫「今日同僚に良いニュースがあるって言われて」

妻「うんうん。なんだったの?」

夫「同僚がシフト減らすから夫のシフトが増えるって」

妻「そうなんだ。」

夫「夫は細々と働きたいのに・・・」

 

~今日の教訓~

 

仕事は1日3時間まで

 

 

乳がんでも可愛いビキニが着たい#乳がんビキニプロジェクト

乳がん全摘出後はビキニを着られない?

どうもオーストラリアのヌーサ在住のサーファーKTです。

私は25歳の時に乳がんになり、左胸を全摘出した。

左胸はまっ平ら。筋肉は取っていないので、皮膚の下は筋肉とあばら。痩せている男性のような胸の状態になっている。

そんな私だが、サーフィンが趣味なのでもちろん水着を毎日着る。

でもやっぱりビキニは着れない。胸元が開いている服も着れない。どうしても胸元の肉がないのが不自然だからだ。右側は鎖骨の下から膨らんでいくのに対して、左側はまっすぐ鎖骨から平らになっている。

普段は乳がん治療後用のパットをブラジャーの中にぽんっと入れて服を着ているので不自然ではないが、胸元が見えそうだとやっぱり気を使う。

 

オーストラリアのレストランで着用しないといけない制服のTシャツも胸元ががっつり開いているのでキャミソールを着てなんとか見えないように工夫しているが、夏の暑い時期に重ね着は本当に辛い。

 

なにより、そこら中にビーチがあるヌーサで、ビキニが着れないなんてとても切ない。ましてやサーファー。水着が正装といっても過言ではないくらいなのに可愛い水着が着れないなんて。

夏が来るたびに、周りのサーファーの女の子たちが可愛いビキニやビーチウェアを身にまとっているのを羨ましく思う日々。

そんな私がだいたい着ているのはノースリーブのウェットベスト。

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足と腕と顔は真っ黒、おなかだけ真っ白という姿に。

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なんとかしてビキニを着れないかと何度もチャレンジしたけれど、そのたびに偽パイを流して大慌て。


なにせだいたい3万円ほどもする私の偽パイ。

シリコンでやわらかくとても質がよいので本当はサーフィンなんて激しいスポーツには使わない方が良いのだろうけど。

購入の際に「サーフィン用に」と相談をしたら、ボディバランスを崩さないためにもある程度同じくらいの重みのあるパッドが良いでしょうとのことだった。

一度、波は小さいが流れが強いコンディションの時に流してしまい、人に拾われてしまったことも。その時は沖で探しに探したけど見つからず諦めて半分ペタンコの胸を隠しながら海から上がったらなんと浜に打ち上げられていた。

私が気づいた時には、カナダ人の男性サーファーがおもむろにその打ち上げられた偽パイを拾い上げ、不思議そうに眺めていた。

ただの偽パイなら恥ずかしいだけで済んだかもしれないが、乳がんのためのパットだと知ったら悪く思うかな、と申し訳なさでいっぱいになりながらその男性に声をかけた。男性はsorryとproud of youのような事を言って励ましてくれたものの、なんとも滑稽な景色であった。

 

それからは、いくら波が小さくてもビキニでのサーフィンに危険を感じ、必ずビキニの上にベストかタッパーを羽織るようにしている。

 

しかし。しかし。

やっぱり可愛いビキニが着たいのである。32歳とはいえ私も女である。

もう一度言うが、水着は私にとって一番大事な服である。

自分の一番大事な時をともに過ごすビーチウェアは可愛いに越した事はない。

そこで今後私は「乳がんビキニプロジェクト」と題して、いかに美しく快適で、かつ安全安心のビキニを改造できるか挑戦してみようと思う。

興味のある方はぜひ参加してみてほしい。

第一弾は、こちら。

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黒のフィットネスブラ。

この内側に薄いパットを入れる用のポケットがある。

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ここを少し開いてシリコンパットを入れるのだが、中がつながっていて動くのでちょうど谷間の部分の表の布と裏地をマジックテープでくっつけた。


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そして入り口部分にもマジックテープを取り付け、パットが中から飛び出てこないように工夫した。

これでドルフィンをした時の上からの水圧でパットが下に流れる事もないし、巻かれた時の多方向からの水圧にも対応できるはず。


さらにこの黒のフィットネスブラをインナーとして上から可愛いビキニを合わせることも可能である。

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今後実際にサーフィンで使用してからレビューをしたいと思う。

これでひとつ不安がなくなれば、可能性がひとつ広がるだろう。

そしてこれによって着れる水着の種類が格段に増えたことは間違いない。オーストラリアはまだ冬だが最近は春の気配もしている。ビキニでサーフィンできる春夏まであと3ヶ月ほどだろうか。これからまだまだ改良を重ねて機能的で可愛いビーチウェアを改造していきたい。


今もし同じことで悩んでいる人やアイデアを持った人がいたらぜひ教えて頂きたい。一緒に快適なビーチライフを送りましょう。


これからの目標として、

私がサーファーとして活躍する事で、乳がんへの理解を深めたり乳がん経験者がもっとビーチライフを楽しめるようなビーチウェアが開発されたり、ガンを含め色んなバックグラウンドをもった人たちがそれぞれの人生の可能性を広げていくきっかけになれたらと思っています。

ぜひ、応援お願いします!


以上、KT@noosa でした。

 

25歳で乳がん末期宣告「甲状腺に転移しています」

甲状腺にもガンができています。おそらく転移でしょう。」

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どうも改めして最強妻のKTです。

前回の「25歳健康そのものの私に乳がんがみつかった」に引き続き、私の乳がん経験についての第2弾です。

前回の記事はこちらから↓

 

saijyakuotto.hatenablog.com

 

乳首からの出血を見つけてからすぐに乳腺科を受診して、マンモグラフィーとエコーの結果、乳がんの可能性が高いと宣告された日、

25年間生きてきて、初めて眠れない夜というものを経験しました。

 

さすがに当時25歳の私にとってがん宣告はそれなりにショックだったのだと思います。

両親にひと通り状況を伝え、さて明日の精密検査に備えて寝ましょう、と思い自分の部屋に戻りましたがどうしていやいや眠れないのです。

目を閉じると、とてつもない量の考えが浮かんでくるのです。

もちろん不安がほとんどでした。

 

ガンってことはあと数年で死んでしまうのかなぁ

もしかしたら数年と持たないかも

余命1ヶ月の花嫁って乳がんだったよな

どうしようかな

私このまま死んでしまうのかな

まだたくさんやりたいことあるのになぁ

 

心臓がどきどきと、ぞくぞくの間を繰り返しました。

不思議と涙はでてきませんでした。まだはっきりガンだと断定されたわけではなかったからでしょうか。しかしどうしても落ち着かず、緊張と不安で起き上がったり横になったりしながら時間が過ぎていきました。4時を過ぎた頃だったでしょうか。真っ暗な部屋で目を閉じ横になり、どうにか落ち着く方法はないかと試行錯誤した末、宇宙を想像してみよう、とふと思いつきました。なぜそれが宇宙だったのかいまだにわかりませんが、壮大なイメージを浮かべることで自分の命のちっぽけさを実感しようとしたのかもしれません。横になったままの状態で自分の身体が宙に浮いて、そのままどんどん空を昇っていき、惑星や星がきらきら光る宇宙にでていきました。地球が青く輝いていているのを横目にみながら、「深呼吸、深呼吸」と自分に言い聞かせたのを覚えています。

すると不思議なことにすぅっと眠りについていました。

この夜の出来事は自分にとっても不思議な体験でした。ガン宣告を受けた当日のような精神が不安な状況でも自分の感情をコントロールできるという、自分の強さ、人間の強さをはじめて知りました。

 

これまで私は、緊張するとすぐおなかを壊す、試合ではいつもの力が発揮できない、相手が高圧的だと逃げたくなる、というように、自分のことをとても精神的に弱い人間だと思っていました。それゆえに、まさかこんな出来事に耐えられるとは思ってもみませんでした。

人間って思っているより強い生き物なんだな、自分が思っている限界よりも先に本当の限界があるのかもしれない、本当にショックな出来事に直面したときは意外と冷静になれるのだな、ということを知りました。

 

それでも数時間ほど経ち目が覚めてしまったので、あきらめて暇つぶしに漫画を読むことにしました。このときクッキングパパを読んだのを覚えています。

我が家には200冊を超える漫画の本棚があります。その中でもクッキングパパを選んだのは、クッキングパパのストーリーにはドキドキハラハラ、争いなどという内容がほとんどないからではないかと今では思います。さすがにがん告知を受けた日にこれ以上のドキドキは必要ありませんよね。何度も何度も読んだクッキングパパの単行本ですが、癒されました。なんでもない日常のほっこりとした出来事に、美味しそうな料理の数々。ショックな出来事があった日、がん告知を受けた日に読む漫画として皆さんにおススメしたいと思います。

後に再発した時はある事情で読めなくなりました。詳しくは別の記事で。

 

こうしてようやく迎えた診察当日。

極度の心配性の母親がどうしても家で待っていられないというので、母に付き添われて病院に向かいました。

紹介状をもって、血液検査、レントゲン、マンモグラフィー、エコーなどの一通りの検査を終えて診察の前で自分の名前が呼ばれるのを待ちます。

 

私は今でも、検査結果を聞く前のこの瞬間が一番嫌いです。普段の生活では比較的ガンのことを忘れて生活していますが、がんセンターの外科の診察室で待っているときは自分がガン患者であることを実感させられます。そして同じように診察室のまえで待っている数十人の患者さんたちもどこか重い空気を漂わせています。

 

自分の検査結果を待ちながらそんな中数時間待たなければなりません。しかも隣には極度の心配性の母。私はいつも母のことが気になって仕方がありませんでした。ショックをなるべく受けないように先生が説明してくれないかな、そんなことばかり考えていました。

 

そんな時、父も仕事を抜け出して病院に到着しましたが、私の名前が呼ばれると、父は診察室の外で待っていると言うのです。

 

母と二人で診察室に入って先生が言ったひとことが

甲状腺にもガンができていますね。おそらく転移でしょう。」

 

目が点になりました。母は慌てて父を呼びに行き3人で話を聞きましたが、先生が言うにはエコーで胸の検査をした際に首元の甲状腺にガンらしきものを見つけたとのこと。

乳房と甲状腺のどちらの細胞も採ってみないとはっきりしたことは言えないものの、間違いないでしょうとのことでした。

この時私は、ずいぶんと端的にはっきりと、「転移でしょう」と言うものだなぁと感じたのを覚えています。昔のような本人に告知をしない時代ではないのはわかっていましたが、こんなにストレートにこちらの様子を伺うわけでもなくポンッと言ってむしろ大丈夫なの?困惑してパニックになる人いるんじゃないの?と思いましたが、意外と私もびっくりしましたがパニックにはなりませんでした。ただただ「転移」という言葉の深刻さはわかっていたので「まずい」と感じました。

 

そのまま先生に淡々と「細胞診をするから」とまたもや検査に戻されました。

エコー室は遮光カーテンに囲まれた狭い空間にひとつベッドが置いてあり、画像を見るために薄暗く、白色灯のスポットライトだけがベッドにあてられていました。

そのベッドにおそるおそる横になり、まずは胸の細胞を採りました。局所麻酔を打たれたので痛くは無かったのですが部屋中に響く「バチン!バチン!」という細胞を採る機械の音にとても不安を掻き立てられました。

甲状腺のガンは小さい針で採るので麻酔なしでも痛くないとのことでしたが、なかなか細胞が採れず何人も先生が来ては細い針をのど元に何度もグリグリと刺されました。

ついに細胞が採れたときには、喉元の痛みと胸の痛み、不安、転移と言われたショックが混ざり合って、とうとう涙がでてしまいました。

一度出始めた涙を止めることは難しく、この2日に起きた出来事がめまぐるしく頭の中を駆け巡りました。外で待っている両親にこれ以上のショックを与えまいとなんとか涙を止めて検査室から出たのを覚えています。

 

この時の両親のことを思うとどれほどの心配をかけたかと思いますが、いまだにこの時の話をすることはできていません。お互いに涙なくしては話せないことだからなのか、もう思い出したくないからなのか。

いつかあの時の両親の気持ちを聞くことができたら、同じように娘さんや息子さんが病気になってしまった方々や、病気になってしまったご本人の家族への対応の参考になるのではないかと思っています。

 

そしてこの日から検査結果がでるまでの1週間、私は人生で一番不安な時間を過ごすことになったのでした。

 

つづく。

 

 

~今日の最弱伝説~

 

妻「最近仕事が疲れる~仕事行きたくない~」

夫「そうか~そしたら、妻ちゃんが仕事減らせるように~」

妻「えっ!?(わくわく)」

夫「俺が仕事がんばる~」

妻「おっ!!」

夫「とは言わない~」

妻「(うん・・・)」

 

~今日の教訓~

 

無理ができないのを自分でわかっている

 

 

 

以上ここまで、最強妻のKTでした!

ばい!

 

 

25歳、健康そのものの私に乳がんが見つかった

乳首から血が出た。それが最初の症状だった。

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どうも改めましてヌーサ在住のKTです。

今日はわたしが乳がんになったときのことをお話しようと思います。

32歳になった今でこそ、オーストラリアで仕事にサーフィンに英語にといった毎日を送っていますが、ここまで来ることは私にとっては簡単な道のりではありませんでした。

それは25歳の夏でした。

 

当時23歳で出会ったサーフィンにハマリ、午前中はサーフィン、午後は派遣、夜はバイトを2つ交互に掛け持ち、とめまぐるしい生活を送っていました。

そんなある日、乳首の辺りがヒヤッとしたので見てみると、ブラジャーに小さい赤い点がありました。

よくよく見るとそれは血のようだったので確認するとそれはどうやら乳首からでたようでした。

職場の上司に相談すると、婦人科ではなくて乳腺科に行くように言われたのですぐに近くの乳腺科を受診しました。

問診では、

「乳首からの出血の9割が乳腺炎で、乳がんの確立は1割です。KTさんはまだお若いし大丈夫でしょうが、念のため検査をしましょう」

とのことだったので、少しだけ安心しながらマンモグラフィーを受けました。

マンモグラフィーは、おっぱいを透明な板のようなもので挟むことで平らにし、その写真を撮るというものでした。人様の前で左の乳房をおもむろに差し出し、看護師さんの手で引っ張られながら機械で自分の乳房が挟まれていくという滑稽な姿になんとも言えない気持ちになりました。

マンモグラフィーは痛いと聞いていましたが、激しい痛みはなく、ただただ引っ張られて伸ばされる自分の乳房がその後伸びて垂れてしまいそうな気がして少し複雑な気持ちでした。

当時私の左のおっぱいは、全体的に少し硬く、つかむと痛い、常に生理前のような感じでした。今思えば右のおっぱいはそうでもなかったので、自覚しようと思えばできたかもしれません。

マンモグラフィーが終わると、次は血液検査。

といっても乳首から出る血液の検査でした。今度は看護師さんから乳首をぎゅーっと絞られて、小さなプレートの上に滴のような血液を乗せていきました。

数滴分の血液を絞り終わる頃には、もうこれ以上出ませんよ、というほどの量でした。

さて次は先生がエコーをするというではありませんか。

ずいぶん熱心に検査をするんだなぁと感心していると、私の差し出した左胸を検査しながら先生がこう言ったのです。

「今日ここに来ていることを両親はご存知ですか?」

なぜそんなことを聞くのか検討もつかず、両親は知らない旨を伝えると

「紹介状を書くので明日、医療センターで精密検査をしてきてください」

とのことでした。医療センターは私の住む街で有名なガン治療の総合病院でした。

ようやく事態が飲み込めてきた私でしたが、両親が心配性なので1人で行ってきますと先生に言いました。すると先生は

「事態が重くなってから伝えるのでは遅いですから、明日、ご両親と一緒に検査に行ってきて下さい。残念ながら、乳がんの可能性が高いです」

 

25歳の夏、早すぎるがん告知でした。

 

「え、どうしよう」

おなかの下辺りがざわざわとするのがわかりました。

案外悲しみや辛さやパニックはなく、一番初めに浮かんだ感情は、両親への申し訳なさでした。

小さい頃からたくさん愛情をそそいでくれた両親は、物心ついた頃から私にこういい続けました。

「両親より先に死ぬのが一番の親不孝だよ」

自分の子どもには心身ともに健康でいてほしいという両親の一番の願いです。

 

その日は夜勤の予定でしたが職場にはすぐに連絡を入れ休みをもらいましたが、なかなか家に足が向きません。

なにしろ両親に一番悲しいお知らせをしなければならないのです。

とにかく海がみたい、と思いました。

小さい頃からずっと海とは慣れ親しんできたので、海をみると落ち着くと思ったのかもしれません。

近くに砂浜はなかったので港の岸壁のベンチに座り、海を眺め、気がつけば5時間が経っていました。

 

いっそこのまま伝えないでおこうかな

でも先生は事態が重くなるかもしれないなんて言っていたし

余命宣告なんてされるのかな

今までたくさんのことをしてもらったのに何も返せずに死んでしまうのかな

両親に伝えたらなんて言うかな

どんな顔するかな

悲しませちゃうな

いやだなぁ

 

いよいよ真っ暗になって、夜の11時になってしまい、覚悟を決めて家に帰りました。

 

夜勤に行ったと思っていた私が帰ってきたので、両親は少し驚いた様子でリビングにでてきました。

そこで、乳首から出血があったこと、今日乳腺科にいったこと、乳がんの可能性が高いから明日精密検査に行かなければならないことを、なるべく淡々と話しました。

もちろん両親は驚いて、言葉がでないようでした。

この時の両親のことを思うと、本当にショックだったと思います。

私が大学生の頃でさえ、連絡なしに22時を過ぎると本気で警察に連絡しようかと思ったと泣くほどの母親です。

そんな母親はもちろん検査についてくると言ったので、自分ひとりで行くよと伝えると、これまた泣かれてしまいました。

 

父は比較的冷静に振舞ってくれ、とにかく明日検査なんだからみんなちゃんと寝よう、と母を諭してくれたように覚えています。

 

そして次の日。

またもや私は衝撃の宣告を受けることになったのです。

 

 

つづく。

次回「甲状腺にもガンができています。」

 

 

 

~今日の最弱伝説~

 

妻「夫くん今日はなんだか体調よさそうだね」

夫「そうだね」

妻「なんでだろうね」

夫「はっ!今日はお水たくさん飲んでいるから!お肌もつやつや~」

 

 

~今日の教訓~

 

休みの日は機嫌も体調も良い

 

 

 

以上最強妻のKTでした。次回お楽しみに!Bye!

オーストラリアの食生活と最弱夫

こんばんは。

 

今日も最強妻のかおりです。

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今日は先日発覚した

食に関する最弱夫の伝説をご紹介します。

 

オーストラリアの食生活はというと、

 

オージービーフ☆BBQ☆オーガニック☆

ブレッド☆ベジマイト

アボカド☆チーズ☆マッシュルーム☆

激まずパスタソース☆フルーツ

 

 

こんな感じ。

レストランではだいたいのものは食べられますが

そんなにおいしいと感じません。

 

完全に個人的な味覚の問題かもしれませんが、

うちの最弱夫も同じく、

食材でおいしいと感じるのはフルーツくらいです。

 

 

フルーツはとにかく旬のものはおいしい。

そして安い。

とにかく甘くてやわらかいマンゴーが一個1ドル(73円くらい)

皮ごと食べられる種無しマスカットが2房で4ドル(280円くらい)

とか!

 

 

これにはかなりの衝撃を受け、

オーストラリアの良いところ10選に入ると思います。

 

 

が、しかし、

他の食材、特に牛肉が美味しくない。

オーストラリアでは、牛肉がとても安いです。

鶏肉や豚肉よりも安いほど。

でも質はと言うと、あまり良いとはいえません。

 

なんかくさい。

血なまぐさい。

 

 

オージービーフって良く聞くから

期待していたのに、とっても残念。

 

なので我が家ではほとんど牛肉を食べません。

 

 

毎日、なに食べようか~

食べるものないね~

というか、食べたいものがないね~

 

と言う会話を繰り返しています。

 

日本食の調味料はそこそこスーパーで調達できるので良いのですが

(ただし質に注意:以前安い醤油を買ったらただの色つき水みたいな感じだった)

 

食材が少ない。

まず、根菜類が少ない。

圧倒的に。

煮物を作りたくても、

ゴボウもなけりゃ、レンコンもない。

里芋もないし。

大根はたま~に売っているけれど、レジに持っていったら

店員さんに「これなんていう野菜?」「どうやって食べるの?」

って聞かれる始末。

 

 

結局、葉野菜ばかり買って

なんとか野菜不足を回避しようとしているけれど。

 

 

そんなこんなで食材は洋風だけど

味付けはダシを使ってなんとか和風の雰囲気を出すように気をつけている。

なるべく優しく、体に優しい味付けで。

 

そんなある日

最弱夫といつものようにご飯を食べていると、

 

「今日も嫁の料理はやさしい味がするね~」

(これいつも言ってくれる)

「でも、もう少し具材が小さかったらもっといいねぇ~」

「そう?具沢山で歯ごたえがあって美味しいじゃん」

「うんそうなんだけど・・・具が大きいと口の中に刺さってあぶないねぇ~」

「・・・・・(え?野菜が?)」

 

 

~今日の教訓~

 

大きな具は凶器

 

 

 

 

以上、ここまでおつきあい頂きありがとうございました。

お相手は、最強妻でした。

 

 

See you later!

 

オーストラリアの英語は本当に訛っているのか

 

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How's it going mate~~

 

どうもこんにちは。

最強妻の、かおりです。

 

なんとなくオーストラリア感を出したかったので

英語で書き始めてみました。

 

 

ここオーストラリアでは

日本でも知っている方が多いように、

「なまり」があります。

 

 

インターネットで調べると

オーストラリア 英語 なまり

と出てきますね。

 

 留学先にオーストラリアを選んで大丈夫なのか。

聞き取れるのか。

自分の英語が英語なまりになってしまうのではないか。

 

などなど、色んな心配や興味がありますよね。

 

では実際どうなのか。

 

 

 

 

はい、

なまってます。

 

 

わたしが暮らしているヌーサという町は

先述の通り、田舎です。

 

 

なまっているとわかっていたにも関わらず、

予想以上に聞き取れません。

 

 

 

 

たとえば

わたしの韓国人の友達は

語学学校でintermediate class (中級クラス)にいたのですが

 

オージー

「How are you?」

 

が聞き取れなかったそうです。

 

 

え?

「How are you?」

が聞き取れないなんてことある???

 

と不思議に思いますよね。

 

 

 

 

あるんですね~

本当に。

 

これはオージーイングリッシュの第一関門といっても良いでしょう。

 

 

 

 

 

では実際になんて聞こえるか?

 

 

それは

 

 

「ハワヤ」

 

 

です。

 

う~~~ん。

それでも聞き取れそうな気がしますよね?

 

でもね、町で突然外国人に(私のほうが外国人なんだけど)

 

「へいはわや!!」

 

 

なんて言われたら

 

「!?!?!?!」

 

ってなりますよね。

 

 

私はオーストラリアに来る前に

ワーキングホリデーで3カ国3年間英語圏で生活した先輩から

 

「オーストラリアではHow are you?に気をつけろ」

 

と言われていたのでかろうじて聞き取れました。

 

 

 

むしろ、あ、本当にハッキリと、

 

「は  わ  や」

 

 

って言ってる!!!と思いました。

 

 

YOUの読み方は「ヤ」になりやすいようですね。

 

 

同僚がお客様に対しても

「I will bring it for you」

 

完全に「おぅぶりんぎっふぉーや」

って言ってました。

 

 

ささいなことだからこそ、

慣れないと聞き取れない。

わかっていてもたまに混乱する。

 

 

渡豪してすぐの頃

友達とボートを借りてBBQをしようという話になり、

BBQコンロつきのボートを予約しに行ったときのことです。

 

いろんな種類のボートを事前に見せてもらい

説明を受けていました。

 

そのときスタッフのお兄さんが

 

 

「デェアーズ モア スパイス」

 

と言ったんです。

 

私は、

「There's more spice」

と思い、

 

 

「へぇ~、BBQ用にスパイスがたくさん用意されたボートもあるんだな~」

 

 

と軽く流していたら

お兄さんはしつこく

 

 

「モア スパイス!スパイス!」

 

 

と言ってくるではありませんか。

 

 

「いや、スパイスはどうでもいいんだけど・・・」

 

 

と思いながらそのボートを予約した帰り、

友達となんであのお兄さんはスパイス推しだったのかと話していたら

 

 

 

「それはspiceじゃなくてSPACEだよ!!」

 

 

 

え、spice じゃなくて、space???

 

 

だって完全にあのお兄さん

スパイスって言ってた・・・

 

 

 

 

そう、オージーイングリッシュ第二の関門

 

「A」は「アイ」と読む。

 

 

 

やられた・・・!!

 

 

 

ただのスパイス推しの変なお兄さんだと思ってごめんよ。

人数多いから大きめのボートを勧めてくれてたんだね。

 

 

 

文脈で理解すればわかるはずなのに、

こんな些細なことがわからない。

 

いや、BBQから推測して

スパイスにたどり着いてしまった私を誰も攻めることはできまい・・・

 

 

 

ここで本題に戻りますが、

オージー訛りはこれ以外にもたくさんあります。

 

発音だけでなく

言葉自体が違うとか、省略してしまっているとか。

 

 

でも

こんな苦労を繰り返した私が言えること、それは、

 

 

 

それでもオーストラリア留学は楽しい!!

 

 

ということ。

 

 

 

今でも、あ、そんな簡単なこと言ってたの?

と後でわかって笑ってしまうことがあますが、

 

そもそも第二言語として英語を習得している身です。

 

「わからなくて何が悪い!!」

 

 

そう、声を大にして言いたい!

 

 

「わからなくて何が悪い!!!」

 

 

 

いや、何も悪くないよね。

 

正直、何回聞いてもわからない時は、

内心、「ごめんね・・・汗汗」

 

と思っているけど。

 

 

 

でもそんな日々を繰り返していくうちに

 

あ、この人イギリス英語だ~とか

アメリカンイングリッシュだ~とわかるようになってくると思います。

 

 

 

そんな経験はオーストラリアでしかできないと思います。

 

 

いや、インド英語とかもっとすごいけど!?

(毎週インド人と2人きりで宿題やってる)

とか言い出したらキリが無いので、

今日はこのへんで・・・

 

 

 

 

~今日の最弱伝説~

 

夫「今日は頭が痛くて具合が悪い・・・」

妻「天気悪いからかな?」

夫「朝のラジオ体操がハードすぎた」

妻「・・・」

 

 

 

~今日の教訓~

 

 

ラジオ体操は数回に分けて行う

 

 

 

 

 

以上、ここまでおつきあい頂きありがとうございました。

お相手は、最強妻でした。

 

 

 

Have a great weekend!

 

 

 

 

 

最弱夫はオーストラリアで生きていけるか

最弱夫32歳で異国の地へ

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こんにちは。

 

改めまして、最強妻のかおりです。

 

 

今日はうちの最弱夫が普段どんな生活をしているのか

最弱夫の生態を少しご紹介したいと思います。

 

 

まず

わたしたちは現在

オーストラリアのヌーサという町に住んでいます。

 

 

オーストラリアはみなさんご存知のとおり

カンガルーの国。

人口よりももちろんカンガルーのほうが多いです。

 

 

首都はキャンベラ、

日本人に人気なのは、

シドニーゴールドコーストケアンズといったところでしょうか。

 

他にもブリスベン、パースなども有名な都市ですね。

 

 

比較的年中温暖なイメージでビーチがきれいで・・・

 

オーストラリア人は親日家で

英語のなまりがすごくて・・・

 

 

あとコアラが可愛い!

最近だとクアッカワラビーも可愛い!

動物と大自然に囲まれて豊かに生活!

 

なんていうイメージでしょう。

 

 

 

 

では実際はどうか。

 

 

 

 

 

 

ひと言で言うと、

 

 

 

場所による!!つまらない回答ですみません。

 

なぜならオーストラリアは広い。

上と下でぜんぜん違う。

都市の雰囲気も全く違う。

シドニーメルボルンは南にあるのでもちろん冬は寒いし雪も降る。

 

でも北のダーウィンケアンズは比較的ずっと暖かい。らしい。

 

ウルルで有名なアリススプリングスという町は砂漠に囲まれている。らしい。

 

などなど。

もしかしたらあなたの想像とは違うオーストラリアかもしれない。

 

 

 

では

わたしが住んでいるヌーサという町はというと・・・

 

場所はゴールドコーストケアンズの中間

 

QLD州のサンシャインコーストに位置します。

 

歩いて5分でビーチ。

車で15分走ればカンガルー。

運がよければ野生のコアラも。(一年で3回ほど見ました)

大きなリスのようなポッサムもそこらの木に。

ナショナルパークに囲まれている。

極上の波。

空からみると森だらけ。

 

 

それでもオージーやヨーロピアンの訪問者はとても多い町です。

 

日本では知らない人のほうが多いですが、

オーストラリアで「ヌーサ」は

とっても有名なリゾート地なんですね。

 

ではなぜそんな日本人に人気の無い町にいくことに決めたのか。

 

 

もちろん。

 

理由は波です。

サーフィンのためです。

 

 

 

ヌーサが

ロングボーダーの聖地ということを知ったからです。

 

ゴールドコーストに行く予定だったのを直前に変更して

ほとんど情報の無いヌーサに決めたのでした。

 

 

幸い語学学校が一校だけあったので、

そこに入学することになりました。

 

 

 

そして現在毎日仕事をしながら

シェアハウスに住んでいるのです。

 

 

 

 

 

では一方

うちの最弱夫はというと・・・

 

 

 

彼はサーフィンをしません。

何度か、したことはあります。

 

 

でも日焼けをすると風邪を引くし、

冬に海に入ると寒くて風邪を引いてしまいます。

 

 

さらにほぼ一文無しの状態でオーストラリアに来たので

語学学校にも行っていません。

 

 

「ハロー。ないすとぅーみーとぅー。」

くらいしか言えない状態で

仕事を探し、シェアハウスに住み、

車を買い、保険を契約し、今に至ります。

 

 

 

 

まず最初の難関は、

外国人への積極性でした。

 

 

日本人の多くに当てはまると思うのですが、

「英語は勉強したけどしゃべれない」

という壁。

 

もちろん最弱夫もそうでした。

 

 

大学受験で英語の勉強をしているし、

大学も文系だったので大学でも英語の授業はありました。

 

しかし、外国人を目の前にすると

やっぱり英語が出てこない。

 

 

なんだかこわい。

強そう。

怒られそう。

恥ずかしい。

発音が気になる。

いろんなことが気になる。

 

 

などなど。

 

 

ある日町を一人で歩いていたときのことだそうです。

屈強なプロレスラーのようなオーストラリア人(こういう人よくいます本当に屈強)

とその彼女がいたそうです。

 

そこでそのプロレスラーさんと目が会った直後に

プロレスラーさんが彼女に何かを言い、笑ったそうです。

 

 

 

それを見た最弱夫は、

 

 

「ばかにされた・・・!」(理由はわからないけど)

 

 

と感じたそうです。

 

 

 

それからというもの、

すっかり外国人への積極性を失ってしまいました。

 

 

もともと

人間に対する積極性が低い最弱夫ですから

 

外国人への積極性は皆無。

どころかできれば関わりたくない・・・

 

 

といったような感じでした。

 

 

 

このように始まった

最弱夫のオーストラリア生活。

 

果たして最弱夫はオーストラリアで生きていけるのか。

 

 

乞うご期待。

 

 

 

~今日の最弱伝説~

夫「うわぁあ~~~!!!」

妻「どした!!」

夫「ゴミ箱に生卵のカラが入っとった・・・」

妻「・・・そう」

 

 

 

~今日の教訓~

 

生ごみは危ない

 

 

 

 

 

今日もここまでおつきあい頂き、ありがとうございました。

 

お相手は、最強妻でした。

 

 

See you next time!